Kaname

Twitter→@fc_knm

お前らJリーガーの最初の推し誰だよ

f:id:knm_fc:20210206010420j:image

 

※この記事は、2019年当時に現・ベガルタ仙台スタッフの菅井直樹氏がプロサッカー選手を引退した際に書いた文章を、そのまま引用しております。そのため、現時点と幾分かのタイムラグがございますが、なにとぞご容赦ください。

 

 

(元の記事のURLから直接引っ張らないことについての、引くほどどうでもいい理由↓

以下の文章は当時保有していたアメブロのページより投稿しましたが、パス忘れ&再発行のモチベの無さによりアメブロ垢を放置。その他の記事はクソみたいなのしか投稿してなかったので、そこを掘り返すよりいっそ現行のブログの方でもう一度載せ直す方がすっきりするかな、と思ったが故です。)

 

 

 


本日2019年1月6日、私がサッカー界で最も尊敬し、そして誰よりも憧れたサッカー選手・菅井直樹選手(34)が現役引退を発表しました。

今オフは入れ替わりの激しいベガルタ仙台というチームにおいて、A契約枠の問題等もあるので菅井選手の引退は薄々あるかもしれないと感じておりました。

ですが、実際に本人からの発表があると、やはり驚きとショックを隠せないというのが率直な感想です。

菅井選手は正真正銘、私にベガルタ仙台というチームを、そしてJリーグというリーグを知らせてくれた第一人者でした。

菅井選手がいなければ、間違いなく今の私はなかったです。

 

 

私が菅井選手を最初に知ったのは2011年でした。

ちょうど東日本大震災が起き、東北は非常に苦しい日々を過ごしていた時期です。

私は仙台出身ですが、その時はすでに関東の方へ移っており、いわば「被災者」ではない立場でした。

そんな中、私の中では2010年に開かれた南アフリカワールドカップのサッカーブームがまだ尾を引いていて、全国ニュースのサッカー速報なども逐一チェックしていました。

それで、春ごろだったと思います。

当時、名前だけは知っていた地元チーム・ベガルタ仙台が震災での中断明け以降快進撃を続けているというニュースをたびたび見かけます。

その時はまだ所属選手の名前はおろかJリーグが何者かすらも知らなかったのですが、「太田・赤嶺・菅井」が当時のメインスコアラーであることを数々の試合速報から頭に入れました。

また、仙台については被災地クラブという立場なだけに、「被災地に勇気を与えるサッカー」というのがキーワードとして、強く私の胸に残りました。

当時は名前も知らなかったメガネの監督が、試合後のインタビューを号泣して切り上げる姿はとても印象的でした。

私は先述の通り勇気をもらう立場ではなかったのですが、チームが被災地に勇気を「与える」姿を見て、本当にカッコイイと感じていました。

 

そうして私はベガルタ仙台というチームに少し興味を抱き始めます。

幸いにもワールドカップのおかげでサッカーの知識はある程度あったので、チームやリーグの「勝手」を知るのに時間はかかりませんでしたが、ベガルタ仙台を知れば知るほど私は衝撃を受けます。

・前シーズンは降格の危機にあったこと、・メインスコアラーの1人の菅井はDFであること、・震災が起こる前から、他のどのクラブよりもお金がないこと、・選手はほとんどが他クラブで出番に恵まれなかったクラスの選手であること、・それでも一致団結して「被災地に勇気を」を鍵に粘り強く上位戦線に居続けていたこと、などです。

ピッチ上の文脈では語り切れない部分にも大いに魅力と衝撃を感じ、ますますこのチームに惹かれました。

そして菅井選手についても、DFながらFWさながらの動きを見せてゴールを量産するその意外さ、しかし守備にもしっかり顔を出す不思議さ、驚異的なジャンプ力、関口さんや角田さんと真逆に静かに背中で語る独特なオーラから、一種の「憧れ」が私の中で芽生えました。

そして、今まで自分が見てきた数多のサッカー選手の中でダントツで「異彩」を放つこの菅井選手をもっと知りたいと思い、そこからベガルタ仙台の試合、さらにはJリーグの試合を追っていくようになりました。

すなわち、今の私のJリーグ観戦癖は、菅井選手がいたからこそ生まれたものです。

 

f:id:knm_fc:20210206010526j:image

 

 

そして2011年の8月、大宮のNACK5スタジアムにて仙台のアウェイゲームが行われるということだったので、生まれて初めて現地観戦に赴きました。

私の注目していた菅井選手はいつも通りスタメンに名を連ねていました。

試合は前半にミスなどから大宮に2点を先行され、0-2で折り返します。

ゴール裏からはブーイングが飛びました。

後半に赤嶺のゴールで1点を返しますが、その後なかなか追い付けず、中島や中原などのFWを立て続けに投入しても追い付けずに終盤を迎えます。

しかし、そこで迎えたCKのチャンス。MF松下のクロスに高さのあるCB・チョビョングクが頭で合わせます。

これはポストを直撃し、このチャンスもダメかと私も周囲のサポーターも確信しました。

しかし、競り合いの中でピッチに倒れた選手が精一杯足を伸ばし、つま先で押し込んでついに同点弾を奪います。

あまりにも一瞬の出来事で最初は本当に誰かわからなかったのですが、場内のアナウンスで菅井選手のゴールだと知ります。

現地で観ていても目が追い付かないプレー、これが菅井直樹だということを知らしめられた、一生忘れられない試合でした。

 

f:id:knm_fc:20210206010549j:image

 

それからも引き続き試合を見続け、時には現地でも観戦しましたが、やはり菅井選手のプレーはボールに触れるまで全くもって予測不能でした。

そしてそのたびに、面白くて、なおかつ憧れて思わずニヤついてしましました。

2013年には25番の入ったレプリカユニフォームを買いました。

今私が持っている唯一の番号付きレプリカユニフォームです。

試合では年を経るにつれて出番もどんどん減少しますが、少ない出場時間の中でもその動きの神出鬼没さや日本人離れした身体能力の高さは健在でした。

「何でそこにいるんだよ!」とは何度言ったかわかりません。

1秒間で2本シュートを打って2本目を沈めた11年のホームC大阪戦、右SBなのに右サイドからのクロスにFWの立ち位置で合わせた12年のアウェイ清水戦、相手DFのバックパスミスをなぜか一番に掻っ攫ってゴールに流し込んだ13年のアウェイ磐田戦、5秒でハーフラインからゴール前まで瞬間移動して1対1を決めた14年のホーム徳島戦、下がりながらの体勢ながらかなりのハイジャンプで金園のボレーをアシストした15年のホーム鳥栖戦、そして石原のシュートミスに体ごと突っ込んでねじ込んだ17年のアウェイ清水戦は非常にスペクタクルなシーンでした。

現役最後の試合となった2018年最終節アウェイ神戸戦でも、試合終盤に見せたプレーには驚きました。

ビハインドの状態での平岡との交代で3バックの右に入りながら、左サイドからペナルティエリア右のスペースへのスルーパスに誰よりも早く反応して完璧な位置に走っていました。

軌道上にいたジャメがもしスルーしていれば、菅井選手はフリーでGKと1対1になっていました。

結果的にはピッチで見られる最後の瞬間となったその試合でも「らしすぎる」動きを見せていた分、まだまだやれるとは私自身勝手ながら思っていました。

ベガルタ仙台はA契約枠などの問題があるとはいえ、J2やJ3の他クラブへ移籍したならばスタメンも張れると感じていました。

 

 

ただ、それでも今まで菅井選手がたびたび口にした「ベガルタで引退する」という約束を守ることを選択したご本人の意思を、私は精一杯尊重したいと思います。

プレーのみならず、ゴールに喜び過ぎて札幌ドームの溝に落下する姿、デジっちで「無音」の時間を全国に届けた姿、サプライズの誕生日パーティーに仕掛け人よりも早く現地入りしてしまう姿、しかし後輩の面倒をしっかりと見て向き合ってくれる姿、苦しい時も表情ひとつ変えずチームメイトを励ます姿など、その仕草ひとつひとつが一生忘れられない選手でした。

 


 

 

最後に、16年間の現役生活本当にお疲れ様でした。夢を与え続けてくれて本当にありがとうございました。

一緒にベガルタを愛してくれてありがとうございました。引退しても、私の中では一生憧れの選手です。

そして、これからはスタッフとして引き続きベガルタをよろしくお願いします。